掃除機のホースに手のひらを当てると、ぺたっと吸いつきます。私の頭の中では、ずっとこれが「真空」のイメージでした。だから宇宙のことを調べるうちに、ひとつ気になって仕方がなくなったのです。地球のすぐ上には、ほぼ真空の宇宙がある。掃除機の口が空いっぱいに広がっているようなものなのに、なぜ地球の空気は吸い出されないのか?

今回は息子に聞かれた話ではなく、私自身が引っかかった疑問です。ただ調べてみると、子どもに話すのにちょうどいい「速さ勝負」の話でした。順番に行きます。

まず、真空は「吸わない」

掃除機が手を吸いつけるのは、真空が手を引っ張っているのではありません。ホースの中の空気が減ったせいで、手の外側にある空気が、手のひらを押しているだけです。押しているのはいつも空気の側で、空っぽの側には何の力もない。

宇宙には、この「押す側」がいません。だから宇宙は、地球の空気を引っ張り出すことができません。もし空気が宇宙へ出ていくとしたら、それは吸われるのではなく、空気の分子が自分で飛び出していくときです。問いは「なぜ吸われないか」ではなく、「なぜ飛び出していかないか」に変わりました。

空気は、投げ上げられたボールの群れ

空気の分子はじっとしていません。部屋の温度で秒速およそ0.5km——音速なみの速さで飛び回り、ぶつかり合っています。では、たまたま真上に飛んだ分子はどうなるか。ボールと同じです。地球の重力に引かれて、落ちてきます。

だから空気は地表の近くに溜まり、上へ行くほど薄くなります。目安としては、5〜6km登るごとに気圧は半分。エベレストの山頂(8,849m)で地上の3分の1ほどしかありません。「地球の空気」の正体は、重力につかまったまま跳ね回っている、分子の群れなのです。

勝負は「重力 vs 速さ」──秒速11.2kmの壁

ボールをどんどん速く投げていくと、どこかで「帰ってこない速さ」に届きます。地球ではそれが秒速11.2km。「脱出速度」と呼ばれる速さで、新幹線の100倍以上です。

空気の分子は秒速0.5km。20倍以上足りません。どれだけ真上に飛んでも、必ず落ちてくる。これが答えの骨格です。地球の空気が残っているのは、地球の重力が強くて(=脱出速度が高くて)、空気の分子がそれよりずっと遅いから。掃除機とは何の関係もありませんでした。

子どもに話すなら ── 宇宙は吸わない。空気は自分でびゅんびゅん飛び回っているけど、地球の重力が強いから、飛び出せるほど速くはなれない。だから空気はここにある

それでも、実は漏れている

ところが話には続きがありました。流れ星が光る上空100kmよりさらに上、高度500〜1,000kmより先の「外気圏」と呼ばれる領域では、空気が薄すぎて分子同士がほとんどぶつかりません。しかもそこは太陽に直接焼かれていて、気温が1,000℃を超えることもあります。熱い分子は速い。

とくに軽い水素は速く、外気圏では秒速5km前後で飛んでいます。それでも脱出速度には足りない——のですが、「平均」が足りなくても、特別に速い一部の分子は壁を越えて飛び出していきます。運動会でクラスの平均は遅くても、いちばん足の速い子はフェンスを飛び越えられる、というような話です。

その結果、地球は毎秒約3kgの水素と、約50gのヘリウムを宇宙へ失い続けています。年間にすると約10万トン。大きな数字に見えますが、地球の空気の総量は約5,000兆トン。1年に減るのはその500億分の1です。しかも逃げているのはほぼ水素とヘリウムだけで、空気の主役である窒素と酸素は重くて遅く、事実上逃げません。

ほかの漏れ方 ── 南極・北極の上空では、電気を帯びた粒子が地球の磁力線に沿って流れ出す「極風」があり、酸素や水素のイオンが毎秒1kgほど出ていくという観測もあります(欧州宇宙機関の Cluster 衛星)。磁場は太陽風から空気を守るバリアですが、極のところに「出口」も作っている——という少し皮肉な話です

月・火星・木星と並べてみる

この「重力 vs 速さ」の見方で他の天体を眺めると、空気の有る無しがきれいに説明できます。

天体脱出速度空気
月秒速 2.4kmほぼなし。重力が弱く、分子が逃げきってしまった
火星秒速 5.0km地球の1%以下の薄い大気。磁場も失っていて、太陽風に毎秒約100gずつ剥ぎ取られ続けている
金星秒速 10.4km地表の気圧が地球の90倍という分厚い大気
地球秒速 11.2kmいま吸っている空気
木星秒速 59.5kmいちばん軽い水素すら逃がさない

月は脱出速度が地球の5分の1ほど。分子がひとつずつ飛び出していく漏れ方でも、長い年月のあいだに空気を失いきってしまいました。クレーターが大昔のまま残っているのは、風化させる空気がないからです。

火星は月より重力が強いものの、地球にはまだ足りません。さらに火星は磁場を失っているため、太陽風が上空の空気に直接ぶつかり、いまも毎秒約100gずつ宇宙へ吹き飛ばされています(NASA の探査機 MAVEN の観測)。かつては分厚かった大気の大半を、こうして失ったと考えられています。

面白いのは金星です。金星にはほとんど磁場がないのに、地球よりはるかに分厚い大気を持っています。磁場は決定打ではなく、主役はやはり重力——という証拠です。ただし金星も、軽い水素だけは逃がし続けた末に、海の水をすべて失ったと考えられています。

そして木星。脱出速度は秒速59.5kmで、いちばん軽くていちばん速い水素でさえ逃げられません。木星が太陽とほぼ同じ材料(水素とヘリウム)でできているのは、生まれたときの材料を何ひとつ手放さずに済んだからです。

まとめ

• 真空は吸わない。掃除機が吸うのは、まわりの空気が「押す」から。宇宙には押す側がいない

• 空気の分子は秒速約0.5kmで飛び回る「投げ上げられたボール」。重力で落ちるから地表に溜まる

• 地球の脱出速度は秒速11.2km。分子はその20分の1以下で、飛び出せない

• ただし高温の外気圏から、軽い水素が毎秒約3kg漏れている。空気全体の500億分の1/年で、実害なし

• 重い天体ほど空気を持てる。月は失い、火星は薄く、木星は水素も逃がさない

宇宙が空っぽではないと知ってから(前の記事)、続けて引っかかったこの疑問も、答えは意外なほど地味でした。宇宙が吸わないのではなく、地球が離さない。今夜、月を見上げることがあったら、思い出してみてください。あの月に空気がないのは、真空に吸われたからではなく、月の重力が、飛び回る分子を引き留めきれなかったからです。